ADHD ホッファー先生の最近のケースレポート(通常治療が無効であった)・・・ケース2

 

 

 

 

上記より

ケース2

C.M.は1994年5月17日初診。母親によると、破壊的で口が悪く、不従順で、癇癪に苦しんでいるとのことであった。あまりの問題行動に母親はあきらめていた。3歳までは元気だった。その頃から他の子供とうまくやれないことが判明した。その後、さらに悪化した。2年間ほど小児精神科医により治療を受けたが(テグレトールも使用された)、改善がなかった。1994年3月24日、精神科の担当医は一般医に、初期の改善は継続しておらず、否定的で反抗的な状況が継続していると報告した。精神科医はC.M.のケアに取り組んでいる専門家と会い続けた。学校は薬物療法を希望していた。しかし、彼女は薬物療法に反応しなかった。精神科医の記述によると、彼女はまだ行動障害があるとのことであった。はっきり注意欠陥障害とは書かれていなかった。

診察室での彼女の態度はひどかった。粗野で気難しく、暴力をふるいかねず、診察室の家具を放り投げそうだった。どんな会話でも憤慨した。自分は私を嫌っていると言い続け、自分は私の治療を決して受けないと言った。彼女が私を見るとき、その目には怒りがあった。もしその小さな手に拳銃があったなら、私を撃ち抜いていたに違いない。彼女は受診したくなく、私に会う前から私に怒っていた。母親によるといつもこのように振る舞うとのことであった。テグレトールにより視力障碍が出現するため、減量しなければならなかった。暴言のため2回ほど学校を停学になり、しばらく多動だった。甘いもの好きで、摂取すると行動は速やかにさらに悪化した。爪に白斑があり、ビタミンB6と亜鉛欠乏を示唆していた。

しばらくして、彼女は悪夢を見ており、電気がないと眠れないと言った。母親に、部屋中にいろいろな物が見えると言った。読字障害があり、指導を受けていた。とてもイライラして敵対的だった。多動スコアは99点だった。私は、乳製品および砂糖なし食、ナイアシンアミド500㎎を毎食後、アスコルビン酸500㎎を毎食後、ピリドキシン100㎎、亜鉛ドロップを開始した。

6月21日、何の改善もなかった。5日間の停学になっていた。まだ大変敵対的で、椅子2つを投げた。眠前にイミプラミン25㎎を追加した。1994年9月20日、ややリラックスしていたが、まだとても怒りっぽく、診察室での行動がとてもひどいので、私には耐え難くなった。thioridazine25㎎を眠前に追加。10月26日、母親が一人で受診。娘はまた停学になったが、泣きながら学校へ行っている。12月イミプラミンを2倍に増やした。かなりの改善が見られた。1995年3月9日、推論力が改善し、学校での成績も改善、いくつかの出来事はあり、容易に慌てていた。私に対して友好的になった。6月23日、母親から電話があった。口角炎の痛みがあった。私はリボフラビンを加え、ピリドキシンを500㎎へ増やした。1995年7月13日、彼女は正常だった。第5学年へ進級していて、よい成績をとっていた。学校を楽しんでいた。ある日学校でウェスタンパーティーがあり、カウガールの衣装を着て、うれしそうに私と私の秘書のフランに見せてくれた。母親によると彼女は好調で、自分でも調子が良いと言い、私は二人に同意した。多動スコアは正常の43点だった。砂糖と乳製品を摂らず、正しいビタミンと少量のトランキライザーと抗うつ薬を用いることにより、この小さな少女は、モンスターから友好的で好感が持てる、学校を楽しみ、多くの友人を持ち、優秀な成績をとる、魅力的な少女になったのである。家族全体が彼女の変化により一変した。 大量のケアには反応せず、むしろ問題行動を誘発していた。もし3歳の時に栄養療法が開始されていたならば、すべてのトラブルは発生せず、プロビンス州の医療費もあんなにかからなかっただろう。彼女はミス・ハイドからドクター・ジキルへと変貌した。1-2年のうちに彼女が内服している2剤を中止して、栄養療法のみにできるのではないかと考えている。

コメント:これは大変なケースです。