ADHD ホッファー先生のケースレポート・・・5歳男児。てんかんと発達の遅れ

 

ケース108

S.V.は1965年10月生まれで初診は1970年12月。1歳まで座位をとれず、1歳半で歩き始め、3歳までに話始めた。精神科クリニックにて多動と恐怖症を指摘された。トランキライザーが開始された。1969年12月、てんかんの大発作を起こした。その後も3回けいれん発作が起き、1970年7月に抗痙攣薬の処方が開始された。痙攣はなくなったが、不調だった。すぐに疲れ、たくさん発汗し、不器用で、ちゃんと走ることができなかった。母親によると小さな女の子にかみつかれたと言っていた。音にとても敏感で、列車の音や姿をみると叫び声をあげ、泣きながら逃げ出した。とても恥ずかしがりで話すことができなかった。初診時に多動があった。トイレトレーニングができていなかった。ナイアシンアミドを毎食1グラム、アスコルビン酸1グラム朝夕を開始し、mysolin250mg は継続した。2か月後、協調運動は改善し、言葉は以前より明瞭になった。ナイアシンアミドを毎食2グラムへ増量し1日10㎎のリタリンを開始した。排泄コントロールのための特別なハウスへ入っていた。ビタミン剤の増量は吐き気のためにできなかった。1971年5月21日、母親はmysolinを中止した。5月25日、けいれん発作のために入院した。そこでmysolinが再開された。トイレトレーニングのハウスは退所し、ナイアシンアミド1グラムを3回内服継続して、意識はよりはっきりし身体の動きもよくなった。小児科の教授は、ごみのようなビタミンは中止し、ホッファーを受診しないように母親に指導した。母親はつねづねmysolinがゴミでビタミンが重要と感じていたので、この意見に怒りを感じた。1971年7月22日、ピリドキシン100㎎を毎食後に追加し、DMG(ジメチルグリシン)300㎎も追加した。1971年8月19日、改善があった。特別なハウスの見解とは異なって、トイレは上手になっていた。顔色、発音はよくなり、数を数えれるようになった。癇癪もなくなった。1972年1月13日、トイレは自分で行けるようになった。10月28日までに都市部へ転居し、特別学級へ行けるようになった。下宿のおかみさんはビタミンの効果を疑っていて、母親に相談せずにビタミン療法を中止した。主治医はmysolinを中止した。1972年6月7日、私はピリドキシン250㎎を毎食後へと増量した。彼の改善は続いたが、6月7日に痙攣発作があった。7月に1回、9月に5回けいれんがあった。その後、さらなる改善を認めず、トランス状態にあるかのようだった。dilantin 150mg とフェノバルビタール20㎎の処方を受けていた。言葉は再び改善し始めたが、まだ多動で平均して月に2回の痙攣があった。よりはっきりと話していた。1973年5月24日、痙攣はなくならなかったが全般的な改善は続いた。1973年7月26日、ナイアシンアミドをイノシトールナイアシン毎食後1グラムへと変更した。1974年1月18日、母親がピリドキシンを飲まなかったら痙攣をおこさないことを発見した。より自立し、自分で行動し、言葉はより明瞭になった。過活動スコアは73から49へ(1970年12月17日から1971年5月21日にかけて)。治療評価はimproved.

コメント:B6で痙攣が誘発される、のは初見。

医師をはじめ、責任ある立場の人の間違った意見はとても有害であることがわかる。