ベンの場合

ORTHOMOLECULAR MEDICINE OF CHORNIC DISEASEより

1962年初めのある朝、友人のジョージが「息子のベンのことが心配だ」と電話をしてきた。ベンは9歳になるジョージの末子で、行動障害と学習障害の問題を抱えていた。今日なら、ADHDかその類縁の疾患と診断されるだろう。学習の進歩がひどく遅いので、教師は両親に発達障害児用の学校へ変わることを勧める準備を始めた。ベンの問題行動が人々に気づかれる前に、彼はIQテストを受けていた。点数は120点であった。このことは、話が複雑になるだけでなく、大変気がかりなことであった。私はジョージにベンを大学病院(現在のSaskatoon王立病院)の5階の私のオフィスへ連れてくるよう頼んだ。当時私は医学校の精神科准教授であり、精神科臨床研究のディレクターだった。

 

当時、私は小児の臨床経験が少なく、ベンの診察にあまり乗り気でなかった。その時までの10年に私が診察した小児は、学習障害児か、あるいは治療方法が無い重度の脳の発達障害児であった。現在いわれることろの過活動・学習障害児は1960年代には珍しかった。しかしあまりにジョージが困っているので、自分の心配は置いておくことにしたのだ。

 

ベンは父親とともに私のオフィスへ入ってきた。彼は健康そうで容姿もよく、古い精神科の教科書に載っているような発達障害児には見えなかった。ベンはなぜ自分がこの場所に連れてこられたか知らず、別に症状もなく、問題もないと言った。父親はベンの成長記録を見せた。ベンは14ヶ月までに歩き出し、20ヶ月までにしゃべりだした。両親ともベンが7歳で1年生になるまで、理想的な息子だと考えていた。1960年の終わりまでに母親がベンの行動の変化に気づいた。ベンは神経質になり、夜眠れなくなった。眠ってもしばしば目が覚めるようになった。学校へ通うことがしだいに困難となった。家族は市内の別の地域へ引越し、別の学校へ通いだした。しかし、問題はさらに増えた。教師はベンの不安定な行動を心配し、「彼は殻の中にいるようだ」と両親に話した。読み書きの能力は非常に低かった。母親の懸命な家庭学習にもかかわらず、彼の第3学年の平均点はDであった。

 

1961年7月、小児精神科医の診察を受けた。母親は「記憶力がとても悪く、文字はひっくり返っており、つづりかたの知識はまったくない。」と話した。母親が集中させようとして物差しを使って読ませようとしても、ベンの眼はスキップしてよそを見てしまう。教師は、ベンは能力を最大限発揮できていないと報告した。長時間白昼夢にふけり、時間を無駄遣いし、勉学に遅れを取っている。集中力は大変低い。宿題は完成せず、テストでは答案すらしない。やる気もない。家庭では父親に反抗的で、学校をよく欠席し、しばしば学校へいくのをさぼって別の場所へ行っていた。精神科医はベンの1歳半年上の兄弟と同じ学校へ行かすこと非難した(ライバル関係になるとして)。そして、精神科医に是正読書(remedial reading)を勧められた。

 

私はベンを診察して困惑した。現在のところ、状況を説明できる異常がなかった。私はベンの尿のクリプトピロール(もともとmouve factorと呼ばれていた物質)を測定することにした。これは以前にも説明したが、我々のグループが大多数の統合失調症患者の尿中に見出したものである。しかし、別の疾患でも少しだけ見つかることがあるのだ。数年前より、この物質を認める患者は、統合失調症の診断でなくても、大量ナイアシン療法にとてもよく反応することを見出していた。

 

翌日、ベンの尿中に大量のクリプトピロールの存在することが明らかになった。ナイアシンアミド(3000mg)を1日3回食後に開始した。両親はこの治療を数ヶ月継続した。ジョージは秋に電話をかけてきて、ベンが正常になっていると言った。是正読書は2ヶ月継続したが、その時点で小児精神科クリニックから「もうよくなっている」と言われた。しかし実際は、改善はビタミン剤を飲み始めた後から改善をはじめたのであった。その夏、ベンは読書を楽しんだ。

 

一人の女性教師がベンについての報告を1973年に送ってきた。ジョージは教師にこのように話した。「以前のクラスでベンはとても問題が多かった。ベンは”ばか者”と呼ばれ、授業中は問われても無言だった。」しかし女性教師が驚いたことに、ベンはグループ討議に活発で自発的に発言をしていた。ここに彼女の記事がある。「体調が改善してきたあとに、学校へ行きたい意欲がでてきた。両親はそのように認識している。ベンは宿題をし始めた。以前は、べンは教科書や鉛筆を探し回り、宿題を始めたがらなかった。」女性教師はしばらくの間、自分の机の上に教科書を置いていたが、途中からはベンが自分ですばやく教科書を使って宿題を始めるようになった。ビタミン療法以前、ベンは割り当てられた時間にノートを写す気がなかった。ノートをとるのにおいつけず、大変苦労していた。そしてイライラし、ついには我慢できなくなるのだ。特につづり方と算数が苦手で、時間が足りなくなってしまっていた。

 

これらの問題はすぐになくなっていった。身体的、社会的、感情的、教育的な問題点に改善が認められた。学期のはじめ、ベンは母が教師であることに誇りを感じていた。学期の終わりごろには、父親と兄についても話すようになった。”ベンはもうシャイではない”教師は報告した。”彼は輝く個性の持ち主である”。ベンはスポーツに興味を持つようになり、得意でもあった。学校やキャンプで他の子どもと上手に付き合うことができた。ベンは仲間内でリーダーシップとまとめる役目ができていた。ベンは読み書きも上手にできるようになった。ステージにあがって、歌い、スピーチし、全校生徒の前で朝の聖書の言葉を読んだ。これらのことが自然にできるようになった。彼は自発的に読書するようにもなった。

 

1966年ベンはグレード7(中学1年)を平均A-の成績で終えた。グレード9(中学2年)では課外活動で陸上競技会に出て、また学校演劇のステージマネージャーの役割を果たした。ベンはとても忙しかったので、この年の平均の成績はCであった。しかし、両親は彼の状態に喜んでいた。

 

1970年、母親が私に面会を求めてきた。ベンは2年間ほどナイアシンを服用していなかった。母親は病気が再発したのではいかと心配していた。ベンは私に以前会ったことを忘れており、なぜビタミンを飲む必要があるか知らなかった。しかし私が経緯を説明すると、ナイアシンアミドとビタミン類の再開に同意してくれた。(18歳になるまで)後にベンは結婚し、家庭を持ち、責任ある仕事に就いた。私の基準では回復にあたる。彼には何の症状も兆候もない。家族や地域とうまくやっており、雇用され税金を払っている。

 

ベンはクリプトピロールの測定を行い、大量のナイアシンアミドを内服させた一番最初の子どもである。いわゆる学習障害や行動障害といわれる子どもに対して、栄養療法がいかに効果的かを示す素晴らしい例である。

 

 

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