2013年11月25日
90代の方からお聞きしました。
昔、満州生活をしていたときのことです。家の2階にアッツ島で指揮をとられた山崎保代陸軍中将 がおられたそうです。
「エリートコースでないので出世できない(陸軍大学卒業でない、天保銭をもってない)」などといいながら、この方の父上とお酒を飲まれていたそうです。
アッツ島 の位置を地図でみてみましたが、寒そうなところですね。
ウィキペディアより
アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、21日に南部の戦線も突破され、主力は北東のかた熱田へと追い詰められることとなった。日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。兵力は1,000名前後までに減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続け白兵戦となったが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎司令官は生存者に熱田の本部前に集まるように命令した。各将兵の労を労った後に「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」を東京の大本営へ宛てて最後に打電。生き残った傷だらけの最後の日本兵300名は山崎保代司令官を陣頭に最後の突撃を行う。この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥り、日本軍は大沼谷地(Siddens Valley)を突き進み、次々とアメリカ軍陣地を突破する。日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、雀ヶ丘(Engineer Hill)で猛反撃を受け全滅。最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。なおこの突撃中、山崎司令官は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている。