統合失調症のケースレポートNo.2
ORTHOMOLECULAR TREATMENT OF CHRONIC DISEASEより
症例2.L.T. 1955年生まれ
1979年に私が初めてLTを診察したとき、1972年来の抑うつ状態にあると訴えた。高校時代、16歳の時に継父にがまんできなくなり、家を出た。17歳で結婚したがすぐに離婚した。別居した時には感情があまりなかったが、その後抑うつ状態になった。抗うつ薬は効果がなく、彼女は薬によって植物になったように感じた。診察時、彼女は現実感がなく、体外離脱感があり、自分の声が頭の中で聞こえていた。彼女は抑うつ状態になるとパラノイアになり、この時は抑うつ状態であった。私はオーソモレキュラープログラムを開始し、彼女は治療に反応した。
彼女は酷い抑うつ状態に再び陥り、3月7日から1か月ほど入院した。改善し、1986年11月13日に入院するまでよい状態が継続した。彼女の治療プロトコールは以下のようなものであった。ニコチンアミド1000mgを1日3回。ビタミンC一日12000mg、ピリドキシン一日250mg、クエン酸亜鉛一日50mg、Ludiomil 一日100mg、プロザック一日40mg、Thorazine1日200mg。彼女は結婚し正常な2人の子供をもうけた。1979-80年13回、1981-82年10回、1983-84年7回、1985-86年14回、1987-88年8回、1989-90年3回、1991-92年6回受診。
統合失調症の経験者にしか、本当の状態はわからない。彼女の病気と回復についての説明は以下のようなものである。
1970年、15歳の時、母と弟と私は街の低所得者用の住居へ転入してきた。2歳年上の兄は、すでにいなくなっていた。この頃からすでに自分は他の子どもと違っていると感じていた。私は自分の方がすぐれていると感じていた。勉強は全くせず、勉強をする生徒を多少軽蔑さえしていた。私は狂っているとも感じていた。私はゴム印に”正気ではない”と彫って過した授業を覚えている。そして”正気ではない”は私のトレードマークになった。この頃、まだ生理が始まっていなかったが、医師に処方されてピルを飲み始めた。この医師に、自分の混乱と抑うつについて話をした。医師は正常範囲の感情であるとうけあった。私は自分の中に欠陥を見出していた。
私はよくない食事を続けていた。コーラ、ピザ、ホットドッグ、チップス、チーズ、ケーキ、キャンディー。アルコールは何でも飲むようになった。喫煙と賭けとストリートドラッグを始めた。ヘロインは短期間しかしなかった。大きな町へ住むようになり、ピアプレッシャーが大きくなったのが理由のいくらかを占める。16-17歳の頃、ヒッピー文化花盛りだっところもある。LSDも始めた。次第に困難になっていく実人生からの逃避であった。
私はスクールカウンセラーに相談した。彼らは”あなたは青年期の不安の中におり、普通のことである”といった。私は寄宿舎へ移った。医師やジェネラルプラクティショナー、そして心理学者へかかった。
私は2回自殺を試みた。それから通りへ出て暮らしはじめた。何かしていないと本当に気が狂いそうだった。私はストリートの友人と結婚し、ブリティッシュコロンビア州を去ることになった。2年後に結婚は破綻し、一人になって生まれ故郷のビクトリアへ戻ってきた。
ビクトリアへ戻ってすぐに特別な人と出会った。彼を以前から知っていたが、これほどまで特別な存在になり、ここまで私を愛してくれるとは当時気づかなかった。状況が悪くなりだした頃、私達は一緒に暮らしていた。私は顕著な幻聴を聴くようになった。ささやくような自分を攻撃する声である。軽度の幻視, 妄想、時に非常に鮮やかな幻視も出現した。思考がまとまらず(あまりに多くの考えが浮かび上がってくる)、暴力的で有害な考えが出てきた。外向的な態度から転じて、ひどいひきこもりになった。何時間も同じところに座り続けた。私は鏡を見るのが怖かった。音に過敏になり、電話にでなかった。誰にも会わなかった。食事もいやだった。とても迷信深くなった。不安発作が始まった。地球が落ち込んで行ったり、皮膚を引き剥がされるように感じた。私は感情を失った。時間がゆっくりと流れた。私は頭を打ちつけ、髪を引っぱって幻聴と魂の痛みを消そうとした。私はぐるぐると歩き回り続け、顔を洗うか、歯を磨くかと考え続けた。私はどうすればよいのか?
遂にある日、事実婚の夫が、市内の古い友人が私を助けれるかもしれないと聞きつけてきた。彼は自然療法医であった。私はこの驚くべき人物(90歳を超えていた)に1年ほど通った。彼は食事について私に教えた。加工されていない、生の食品をとり、刺激物を避けるように言った。彼の影響でビタミン類にも興味を持った。彼の方法が役立つことが明らかになった時点で、専門家を紹介してくれようとした。一般医の紹介状が必要であったが、これまで4年間に罹った医師は紹介状を書いてくれなかった。自然療法医は自分のグループ療法へ参加するよりも、ホッファー医師へ罹ったほうがよいといってくれたのだった。
さらに2人の医師に頼んで、最後にいやいや紹介状を書いてもらった。ドクターホッファーへの初診は、私の人生を変える出来事であった。HODテストを受けて、統合失調症であることが確認された。ホッファー医師は統合失調所について説明し、どうすれば克服できるかを注意深く説明した。ビタミン、ミネラルと薬を処方し、正しい栄養について話した。
3週間後、私は元気をなくしていたのを覚えている。改善が認められなかったのだ。ホッファー医師はHODテストを再検することを提案した。驚いたことに30ポイントの改善が認められた。励ましと内服薬とサプリメントの調整を行い、さらに3ヶ月の治療を継続した。私はさらに最悪の状態であると感じるようになった。(実は改善し始めていたのだが)私は病院へ行き、電気痙攣療法を何度か受けた。2ヶ月後に退院し、気分が改善しているのに気づいた。それからの数ヶ月、多くの兆候が出現した。回復の兆候であった。生理は規則的になり、筋肉痛は無くなり、異常な感覚が消失した。私の記憶力は改善し、多くの情報を取り入れられるようになった。最近も、「私の脳は回復しているかのように感じる」とホッファー医師へ話したほどである。私は1990年までにはすばらしい状態になっていた。
1980年に私は回復のゴールへと達していた。25歳のときである。私は自分の健康状態をテストする必要を感じた。仕事へ復帰するべきか?過去に何度か就業するもすぐにやめていた。自分の考えに自信がもてなかった。まずはパートタイムの仕事を開始した。しばらくして自信ができたところで、次のステップへ進むことにした。1981年3月、前述した特別な男性と結婚した。周囲からはどちらにしても結婚していただろうといわれた。私と彼は結婚前にすでに最悪の状況を経験していた。
1983年4月3年のパートタイムの仕事と2年の結婚生活を経験した後、私は正常妊娠で、美しい男の子を生んだ。私は妊娠中もビタミン療法を継続し、一般薬は妊娠の1年前に医師の指示で中止していた。4年も継続した内服治療をやめ、食事とビタミン、生活療法を継続した。
私は小さな事務所に職を見つけ、その後に、the Friends of Schizophrenics Societyでボランティア活動にかかわるようになった。
地域の病院や精神健康センターでおこなわれる統合失調症の講義の後で集まるグループである。彼らはビクトリアの新しい歴史を作ろうとしていた。私はそこへ飛び込んだ。これこそが私が待ち望んでいた機会であった。自分以外の統合失調症患者を救うチャンスを見出したのだ。私と同様の治療で改善するものが確かにいた。私の統合失調症の経験をポジティブな経験へと昇華できる時がやってきたのだ。
将来、知識を集積して臨床研究に役立て、最終的に統合失調症を解決したいと考えている。統合失調症患者こそがこれを成し遂げれる者である。
この患者の言うところのコントラバシーはつまり、改善の多くがビタミン療法によるものであるかどうかという点である。他の多くの患者はこの治療に興味を持っていたが、多くの専門家(医師)たちはそうではなかった。専門家らはグループの者に患者の友人としてサポートするように話した。トランキライザーのみが治療で、ビタミン療法は時間の無駄であると納得させた。
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