愛する相手は自分のものではない・・・仏教超入門より
現代的な犯罪とされるストーカー行為も、歪んだ愛着の表れであろう。(中略)
ストーカーはけして陰気な楽しみではない。やはり、それは苦しみなのである。自分の中にいつのまにか生まれた飽くなき執着という衝動に押されて、どうにもこうにも抑制がきかない状態になっているからである。(中略)
欲しいものがなかなか手に入らないときの苦しみは、相当なものだからだ。また、手に入れたとしても、それが汚れたり傷ついたり、あるいは盗まれたりしたとこの苦悶もひどいものである。
もっと身近な歪んだ愛着の例では、親の、子に対する過干渉や過保護がある。
親は自分では子を愛していると思い込んでいる。ところが、子のほうは窒息しかけているのだ。ややもすれば、精神がおかしくなる。
自分の地位や名誉に恋々とするのも苦しみを生む。土地に愛着したり、血統に愛着したり、学歴に固執したり、独りよがりな考えや思想を正しいと狂信したり、民族や国家に執着したり、まさに愛に似た執着の種はつきないものである。
中東でイスラエルとパレスチナが陰惨な戦争を続けているのも、互いにその地の歴史や民族に愛着してやまないからではないか。
そういうふうに変質するような愛ならば、遠ざけたほうがいいのである。
変質する愛とは、相手や物をいつの間にか自分のものと思い込むような愛着である。
相手を自分の所有物だと誤解しているからこそ、ためらいもなく暴力が振るえるのだ。
自分のものならば、どんなふうに扱ってもいいという、根本的な誤謬がそこにある。
キリスト教の真髄は、「神は愛なり」だそうです。誰しも納得するすばらしい教えでしょう。
一方、愛の名のもとに行われる恐ろしい人間の行動があります。
愛の中に含まれている「愛着」と「渇愛」を避けよ、と教えているとのこと。
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