ADHD ホッファー先生のケースレポート・・・2歳半女児。話すことができない
ケース40
P.H.は1969年2月生まれ、初診は1972年12月。彼女の母親は妊娠期間中大変不調で、帝王切開で出産した。8か月の時から話始めたが、16か月で急に話さなくなり、2歳頃までに過剰に泣くようになった。とても落ち着きがなく、居間で一日中ブランケットをかぶって頭を揺らしていた。2歳半でまた話始めた。診察時にはわめいていた。ほしいものは指さした。プレイスクールではとても落ち着かなかった。専門機関で精神発達遅滞と診断された。私はこれに同意せず、過活動症候群と診断した。ナイアシン1グラム朝夕後、アスコルビン酸毎食後1グラム、チアミン150㎎毎食後、ピリドキシン200㎎毎食後を開始してもらった。1か月たつと、過活動性は低下した。1973年1月17日、ナイアシンを毎食1グラムへ増量した。1973年4月24日までに気分はだいぶん良くなった。より話すようになり、”ママ””お人形”などと言えるようになった。ナイアシン1グラム一日4回へ増量。加えて、ジメチルグリシン300㎎を始めた。アラン・コット医師よりジメチルグリシンによって言語発声がすばらしく改善することを聞いていたのである。1973年8月29日文章が話せるようになった。自信ができてきて、歩行も改善し、塗り絵も上手になった。私はナイアシンを毎食2グラムへ増量した。DMGFは高価なので中止した。少しの亜鉛とマンガンを追加した。彼女は改善し続け、両親は喜んだ。ジョンホッファーは診察し、improvedと評価した。1974年1月7日、より幸せで、よくしゃべっていた。より自律的で、過活動性は少なく、塗り絵が上手にできた。想像力が働き、静かに座っていることができた。1974年3月8日、改善は継続していた。より会話ができるようになり、語彙も増え、他の子供ともうまくやれていた。過活動スコアは63から30へと低下した(1972年12月14日から1974年1月7日にかけて)。1979年6月4日the Focus Educational Serviceの校長は以下のように記述した。”P.H.は明るい小さい女の子で、理解力や学問的な能力に何の問題もない”
1981年10月19日、彼女は次のような手紙を送ってきた。
”私は第7学年の勉強をしていますが、特殊なプログラムにもう少し時間をかけて取り組まなければなりません。このプログラムに取り組むためには、あなたの推薦が必要になります。以下のような手紙をお願いできないでしょうか?
ーーー ありがとうございます。 お元気にされていることと思います。12月1日に引っ越しをしました。とても大きくて古い家です。広い家に住むのと、母の家のセッティングする手伝いするのが楽しみです。”
どうみても精神発達遅滞の人の手紙とは思えない。
母親は私がビクトリアへ移ってからも、彼女を見せに来た。最後にみたのは1993年7月29日。私は以下のような手紙を紹介元の医師へ書いた。”本日母親とやってきた彼女の継続的な改善をみて、大変喜んでいます。大学でうれしそうに働いている話をしてくれました。食堂のヘルパーとして1年に6-7か月働いている。昨年の夏は祖母の看病をしていました。P.H.はとてもよい働きをしました。発語は大変改善していると思います。態度はとてもよくフレンドリーです。私はこれらの進歩をとてもうれしく思いました。メンタルテストで、知覚に異常はなく、思考の異常もなく、記憶力はすばらしく、集中力も良好でした。彼女は元気で、良く眠ることができます。アスコルビン酸1グラムを毎食後とBコンプレックスをお勧めしました。これは彼女が赤ん坊の時に知能指数が70で、しゃべれないと診断されたことから考えると、目覚ましい違いである。
コメント:とても早いタイミングでホッファーに受診している。
かの国であってもラッキーだったのだろう。