真実の愛に満ちた行為は意識されない
上記引用
誰か他人に親切にしたあとは、快感を味わうことができるものだ。親切な行為や善行そのものが快感であるというわけではなく、その行為のあとに自分が少しだけ聖人とか清い者とかに近づいたような気分を味わうことができるからだ。
しかし、ふだんの生活の中でわたしたちが友人や知人に親しくする場合には、それもまた善行だなどとは意識していない。まったく自然に良いことをしているし、そして、その行為によって自分が清い者になったような気分を味わうことすらない。
けれども、こちらの行為のほうが、親切を意識した行為よりもはるかに真実の愛と心に満ち、上位にあるものなのだ。