松下村塾と地域医療

日本臨床内科学会誌 2025年12月号より引用 江本 政広先生

 長州萩の兵学師範である吉田松陰は、身分や階級にとらわれず志のあるものは誰でも学べる私塾を主宰していました。安政4年から1年余りで90余名が集い、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、久坂玄瑞ら優れた人材を輩出し、明治日本の礎になりました。興味深いことに、この松下村塾は平屋建ての小舎で広さは開設当初8畳一間でした。京の都や江戸から遠く離れた辺鄙な地に多くの優秀な人材が集まり、互いに高め合ったのです。その背景として、松陰先生の想いや指導力に加えて、松下村塾という「場」の存在が重要だったと考えています。意気盛んな若者が8畳一間に集まり、活発な議論をくり広げることでのみ達成できる集合知のようなものが存在したのだと考えています。

一方で、現在の地域医療は元気がありません。新型コロナパンデミックを経て、リモート会議が一般化し、地方で開催されるリアルな研究会は激減しました。リモート会議でも、一定程度の知識を習得することはできますが、集合知は期待できず、偶察力も生まれにくいでしょう。何よりワクワクしません。頼みの製薬会社は、MR活動を慎み、学術活動の協賛に抑制的です。この一例に限らず、地方では専門医が集まる機会は少なく、集合知も得にくい状況です。地方における学術的な「場」の欠如は若い医師のキャリア形成に不利であり、医療の地方格差を生む主な要因だと思われます。

付け加えて、地域医療界に蔓延する過剰なまでの自己抑制的雰囲気を気にしています。松下村塾では封建的な時代であっても自由な意見表明と議論が許されていました。一方、現代の地方社会は、自己抑制的です。製薬メーカーは公正競争規約に従い、発表原稿の事前チェックと修正や削除の要求をしてきます。「科学的正確性」「適応外プロモーション防止」等の基本姿勢は理解できますが、やり過ぎ感があります。学術的独立性や学問の自由の観点から、産官学での線引き見直し議論を期待しています。さらに、医学研究における倫理規定を厳格に順守しようとするあまり、その実務において過剰に制限する傾向が続いています。例えば、若い医師が自験症例(非介入、匿名化データ)を発表するだけなのに倫理委員会の承認を必要とする学会や出版社が存在します。常設された倫理委員会を持たない田舎の小さな医療機関でも若き医師がキャリア形成できるよう線引きの明確化と周知を望みます。2022年に発表されたOECDの政策レポートでは、研究発表の自由が国家の研究インフラを強靭化し、ひいては国益に資することを報告しました。世界は既に行き過ぎた自己規制から脱却し、新たな発展機会を模索しているように感じています。

萩の若者たちは自由な議論を通じて時代を動かしました。地域医療の復興を願うロートル医師として、若い医師がどの地域に赴任してもキャリア形成可能となる制度設計、すなわち専門医がリアルに集まり切磋琢磨できる環境の整備、研究の独立性と発信の自由を守る環境、そして過剰な自己抑制的実務の見直し議論が始まることを期待しています。

コメント:とても興味深い論文でした。医療に限らず、地方が衰退していくようでは日本の未来もないと思います。