縁起とは?

「超仏教入門」より引用・・・生まれて初めて勉強した気がします。

すべては「縁」から生まれている
仏教では、この関係性というものをもっと徹底して考える。
そして、この自分というものですら多様なる関係によって成立しているものであって、それらの関係性を排除してしまえば、自己というものがついには何もなくなってしまうという驚くべき事態につきあたるのである。
中世フランスに生きた哲学者デカルトは、この自分、せんじつめていっても、この自分の精神の存在だけは疑うことができないと「方法序説」で述べた。それが、有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という一文だ。
一方、仏教ではこの自己すら関係性の中にあって、あたかも存在しているように見えているだけであり、自己の実態などというものはないと考える。
先にも述べた縁起思想である。
関係性のみが重要であるというこの考えは、ゼロを用いることによって初めて正確に表現される数字表記のようなものだろう。
たとえば、2007という西暦年の表記である。2と7にはさまれた0は何もないことを示しながら、同時に桁を表している。
百と十の桁には何もないのだから、そのまま27と記してもよさそうなのだが、それでは2桁の27と区別がつかなくなってしまう。だから、空白にゼロを置く。
そして、このゼロは両端の数字との関係によって意味をなすわけである。
わたしたち個人の存在も、このようなものだと、仏教では考えるのである。
自己は無であると同時に、関係性の中では有となる。言い換えれば、現在の関係性の中でこそ、自己は有として存在する。
であるからこそ、今の関係は大切なものである。今ある自分と周囲との関係は、まさに自分の命なのである。
命とは生きている自分の生物学的な命だけではない。関係も命なのである。
だから、「お世話になってます」という挨拶は命の確認と感謝になる。
今だけのことではない。これまでに無数の縁があったかあらこそ、今の自分がここに命をもって存在しているわけである。
喜びも悲しみも、悩みすら、この縁によって生じている。
そういうふうに見通していくと、結局すべてがいただきものであったということが明らかになるだろう。
この命も、人生のこの手応えもいただいたものである。そう気づいたとき、澄み切った安心が自然と生まれてくる
もはや、善悪すらも、この縁の中での出来事となる。どんなささいなことも、この一瞬の感情ですらも、たった今の縁がつくり出したものとなる。
仏教が「縁起」と「空」を悟れと勧めているのは、感謝する生き方を創造するためなのである。