脚気(B1欠乏症)の歴史・・・論より証拠

脚気は幕末から明治にかけ猛威をふるった原因不明の難病で、大変に恐れられました。

高木兼寛(後の東京慈恵医大の創設者)は、「蛋白質不足が脚気の原因である」との仮説をたてて臨床研究を行います。

明治17年、一隻の軍艦に、英国海軍の食事を参考にした食糧を乗せ、ニュージーランド、そしてハワイへ。途中で肉の缶詰が腐敗し、高たんぱく食を継続できないトラブルが起きます。 しかし、たった一人の患者も出しませんでした。同様のコースをたどった軍艦「龍じょう」では150人の脚気患者を出していました。

結局、高木の仮説は誤っていたわけですが、麦飯で脚気が治るという部下の医師の報告もあり(重地正巳・・・自分の脚気を麦飯で治した)、最終的に玄米や麦飯に含まれる未知の栄養素の不足が原因であることが判明してゆきます。

一方、細菌原因説をとっていた東大のグループ(林林太郎ら)は反論を続けます。その結果、日清・日露戦争では、麦飯を食べていた海軍で脚気はほとんど発生せず、白米を取り続けていた陸軍では30万人の脚気患者と3万人の脚気による死者を出します。

海軍では1887年にほとんど脚気を撲滅。陸軍ではその後も脚気が発症し続け、日本でも毎年1万人前後が脚気で命を落とすという状態が1940年頃まで継続します。

 

以下引用

長々ととり上げてきた脚気の論争は、日本の医学の歴史を語る上でもっとも重要な事件であるだけでなく、医療全体の基盤にあるもっとも根本的な考え方そのものを問う点において、重大な教訓をはらんでいます。

その教訓は何も難しいことではなく、古くからあることわざですで述べられています。「論より証拠」ということです。

「証拠」というと誤解を生じるかもしれません。森林太郎らの東大グループが、高木らに対して「洋食や麦飯がかっけを予防する科学的根拠がない」と言って反論し続けたのは、ここでは「論理がわかっていない」という批判でした。そのため、ここでは「論理の根拠より事実の証拠」といったほうが正確でしょう。

 

患者からすれば、「治るならなんでもよい」のです。理論はあとからついてくるものなのでしょう。