台湾にいた!

昭和12年生まれ女性。

終戦時台湾在住。 引き揚げ時は、一人4000円?という貨幣持ち出し規制があったという。父親が「靴の中へ隠して持ち帰る」といったが母親が止めたという。出国できなくなることを危惧したのだろう。

大陸ほどの混乱はなかったようだが、家屋敷財産すべて放棄したわけで大変だったらしい。

帰国後は親戚を頼って生活したが、長くなると気まずくなっていった。

祖母が、小さな家を「もしかしたら必要となる日がくるかもしれない。」と維持してくれていた。やっと落ち着くことができた。

 

京城にいた

以下ウィキペディアより引用

1945年、ポツダム宣言受諾による、日本の敗戦に伴い、外地に在留していた日本人の引き揚げ事業が始まった[1]。その開始当初の予定では、台湾以外の他の地区からの帰還を優先させ、台湾からの帰還は最終段階で実施される予定だった[1]。台湾の治安をはじめとする状況が、他の地域(例えば満州)に比べてはるかに良かったからである[1]。
敗戦を迎えても在台日本人のなかで本国へ引き揚げを希望する者はわずかしかいなかった[2]。彼ら日本人のほとんどが、台湾人によって危害を加えられたり、不安にかられたことがなかったことによる[2]。朝鮮や満州と比較して、在台日本人の敗戦認識には特異なものが見られる[2]。
多くが都市生活者だった在台日本人は、すでに生活用品の切り売りなどでタケノコ生活に陥っていながらも、住居を追い出されることもなく、敗戦前と同じように市内も自由に歩き回ることができた[2]。